『ライ麦畑の反逆児』を見た。

一度でも寝た男のことはすぐに忘れてしまう。セックスできなかった男のことはいつまでもよく覚えている。

 

セックスすれば別れることができる。いつまでもセックスしない男女はいつまでも別れることができない。そして何年も友達以上恋人未満、疑似恋愛みたいな関係を引きずることになる。本人たちは楽しそうだが、そのせいでかえって周囲は鼻白む。

 

一番いいのは、セックスなんてせずに二度と会わないことだ。そうすれば君は私の中で美化されたまま、ぐずぐずと私の記憶に憑依し続ける。

 

ライ麦畑の反逆児』を見た。

 

元々私がサリンジャーを読み始めたのは、Iさんの影響だった。彼は芥川龍之介サリンジャーの愛読者で、シューゲイザーの熱心なリスナーだった。いつもイヤホンを耳に挿していて、それを「下界を遮断する」と呼んでいた。周囲の人と馴染まない性格なのは明らかだった。そのせいで彼は、一流大学を出ているにもかかわらず、あんな職場で働いていたのだろう。

 

斜に構えてひねくれたことばかり言う人だったけれど(そういえば「今日暑いですね」と言ったら「知ってる」と返されたことがある)、それがかえって女性にウケていた。本人は決してそれを喜んでいなかったが。何かの飲み会で彼が女の子に強引にキスさせられそうになっていたことがある。明らかに乗り気でなかったので、私は余計な助け船を出したのだったと思う。その後、喫煙所で「優しいね」と言われた。彼の周りに張り巡らされた壁が融解するような錯覚にとらわれた。

 

私はIさんの影響で芥川を読み、”ベタ”すぎて敬遠していた『ライ麦畑でつかまえて』を読み、そしてandymoriを聞いた。「The libertinesが好きなの? じゃあandymoriも好き?」。

 

ライ麦畑』には残念ながらハマらなかったけれど、買い直して再読した「バナナフィッシュ」は妙に私の心をとらえた(なぜシーモアは死んだのだろう?)。

 

フラニーとズーイ』も良かったし、今しがた見た『ライ麦畑の反逆児』も面白かった。ひねくれ者のIさんはきっと、自宅の周りを塀で囲む世捨て人に自分を重ね合わせていたんだろう。

 

彼が今何をしているのか知らない。LINEは知っているけれど、もう連絡をすることはないだろう。ただ、たまに彼のことを思い出す。今振り返るとちょっとダサかったシルバーのアクセサリーとか、いつも吸っていたPall Mallの匂いとか。よれたシャツの襟首とか。

 

寝なかった男のことはいつになってもたまに思い出す。

 

 

 

 

 

 

『逆光』

『逆光』を見た。

 

gyakkofilm.com

語るというよりは浸っていたいような映画だった。

でも一つだけ。

最後、吉岡はわざと使用人のおばあちゃんをやっかい払いしたんだよね?

お腹が痛いフリをして。正露丸を隠して。

そして襖のカットがしばらく続くということは晃を、すくなくともすぐには、拒絶しなかったということではないの。

それなのに東京に帰ってしまったんだね。

『アナーキー・国家・ユートピア』読書ノート

10年以上積ん読になっていた『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)を読んだ。
・第一部は、いわゆる「自然状態」からいかにして最小国家が導出されるかについての記述であった。ノージックは、最小国家は正当性を持つと主張する。最小国家は、人々の権利を侵害することなく成立するからだ。(この主張は、アナーキストへの反論でもある)。
・この箇所では、政治哲学の伝統である「自然状態」から出発して議論を展開しているので、その伝統に倣わない私達に「そもそもフィクションから出発することにどれくらいの妥当性があるのか」といった疑問を残すことになる。(私はこの箇所を読んでいて宇野弘蔵の『恐慌論』のことを思い出した。精緻な議論が繰り広げられているのだが、様々な事柄を捨象するという宇野の手法に納得ができないとその議論の内部に入っていけない)
・国家の成立については人類学の文献を参照したい。
・第二部では、拡張国家が不当であることを論証しようとしている。よく知られているように、ノージックは、再分配は各人の所有権の侵害であるとして否定している(これは私がこの10年間、ノージック積ん読にしていた理由である)。
ノージックは、手続きの正当性にのみ着目する。すなわち①いかにして誰のものでもないものを所有するに至るか、②所有したものの移転(売買や譲渡)はいかに行われるのかの二点である。最初の所有と移転が正当な手続きを経て行われるのであれば、その結果がいかなるものであろうと(いかに貧富の格差があっても)それは正当な状態であるということになる。
ノージックは、①について基本的にはロックに依拠しているのだが、ロックの理論への疑問点を未解決のままにしているところがある。例えば、ロックは、人は無主物に自らの労働を混入することによってそのものを所有できると主張するが、果たして所有物の境界をいかにひくのかといったことだ。
・親は子供を所有できるのかという点についても触れられている。(スーザン・オーキン『正義・ジェンダー・家族』を読む。)
・私は「自己所有」という概念に関心を持ち、悪評高いリバタリアニズムに親近感を覚えているのだが、残念ながらノージックにおいてこの主題は展開されていない。
・補足的に触れられているだけだが、マルクスの労働価値説を批判した箇所がある(第8章<マルクス主義的搾取>)。労働価値説において、あるものの価値は、そのものに含まれる労働の量によって決まるとされているが、実際にはマルクスの理論はそうなっていないという批判をしている。このノージックの批判をいかに評価するのか?
・第八章<自分に影響することに対する発言権>、第九章<最小を越える国家の派生>のいずれも民主主義国家を否定するような論理展開になっている。

20210225

今日のお昼過ぎ、ふと、できる限り長い間、Twitterを見ないようにしてみようと思った。スマホのアプリは消した。仕事でネットサーフィンをしている途中にうっかりTwitterを開いてしまったが、それ以外は見ていない。

 

「情熱的に次から次へと欲望を持ちながら過去をあっさりと捨て去ることができる主体こそが、ポストフォーディズム下で元気に生き延びることができる」(責任の生成、306)

 

この一文に出会って「私じゃん」と叫んでしまった。わたしってポストフォーディズム的な主体なんだ(笑)

 

私は過去を切断したい。そして次から次へと新しい場所に移って、新しいことをしたい。わたしは自分のことを「根無し草」と規定している。

 

それにしてもわたしは自他共に認めるスピード狂だが(一昨年、免許停止になり、昨年、免許取り消しになったので説得力があるでしょう)スピードは、どれだけ速くなっても、切断することができない。逃げ切ることができない。スピードと切断の間には飛躍がある。

 

どうすれば切断が可能になるのか?

20201116

ものを書けなくなっている。

 

三者から見れば、出版社で働きながら、署名記事を書いているのだから、ものの読み書きができる人ということになるのかもしれない。

 

しかし確実に書けなくなっている。いろいろな要因があると思うけれど、ひとつには仕事でインターネットの記事を書いているのが良くないのだと思う。

 

どうもインターネットでの作法に慣れて抜け出せなくなっている気がする。

 

Twitterでぶつぶつつぶやいたところで何にもならないし。

 

どんなことでもいいので、ここでリハビリをしていこう。

 

といいつつ、今日は英語の勉強が残っているのでここまで。

20200515

不倫はよくない。私のような女ですら、目の前の男が「人のもの」なのだと思うと、執着する気持ちが芽生える。手に入らないからこそ、欲しくなる。君がもし独身だったら、私は君に今と同じような熱量で惹かれただろうか。

 

それはさておき、昨晩の話からしよう。友だちから「俺の家でカップルがセックスするから鑑賞しないか」という連絡が突如来た。面白そうだったので、深夜に友だちの住む団地に急行した。そこには知人のカップルがいて(この二人が付き合っていることは知らなかったが、どちらとも知り合いだった)しばらくお喋りしてから、セックスを見せてくれた。

 

カップル喫茶以外で人のセックスを見たのは初めてだった。興奮はしなかったけれど、「こういう体位もあるのか」「女性の喘ぎ声が静かだな」という感想を抱いた。

 

(どうでもいいけれど、突如「なぜ私は平穏なところに留まれないのだろう」と思った)

 

明け方、車を運転するのが気持ちよくて、つい大黒ふ頭まで足を延ばしてしまい、就寝が7時頃になってしまった。

 

その後、友だちが遊びに来た。いつものように、奥さんには「会社に行く」と言って家を出てきたのだろう。セックスして仕事してランチしてからまたセックスして仕事して夕飯を食べて喫茶店に寄って解散した。私はこの友だちが大好きで、私のものにならないのなら刺してしまいたいくらいなのだけれど、彼が未婚だったとしても同じように好きかどうかわからない。

 

月曜日の夜に投稿してからTwitterを更新していない。普段ついスクロールしてしまうTwitterだが、見なくても大して困らないし、わざわざ投稿することなんてないという気分になっている。

 

しかしその代わりになのか、こうしてブログを書いているのだし、何らかの方法で吐き出す必要はあるのかもしれない。それは日記では駄目なのだろうか。

 

仕事も留学の準備も一向に捗らない。留学に関しては、もう本気で書類を準備し始めないといけないというのに、腹を決めかねている始末。

20200513

昨日、今日と家で過ごして、かなり回復してきた。

 

3月末の外出制限と4月からの緊急事態宣言。私は一向に気に留めず、飲み歩いたり、セックスしたりしていた。それは「いずれ感染する」ことを前提にした行動だった。

 

どうせ感染はするけれど、しっかり寝ていれば、重症化しないだろう。そう思っていたのだけれど、5月の頭から乱痴気騒ぎを続けたせいで疲れが溜まった。土曜日から風邪っぽいのだけれど、恐らくこれは「陽性」「軽症」という状態なんじゃないだろうか。

 

家にいる時間が増えて、珍しく自炊をしている。一度自炊を始めると、「この値段でしっかりと野菜と肉が食べられるのか」となり、もう二度と外食できないんじゃないかって気がする。

 

今日は映画を二本見た。一つは、友人に勧められた『隠れビッチやってました。』。男漁りの話は、わずかな分量しかなく、主人公が「父親に虐待された」というトラウマと向き合う話だった。「尻軽な女は、心に闇を抱えている」というファンタジー。(映画が実話に基づくものであることを否定するわけではない)

 

もう一つの映画については書けない(試写なので)

 

今日はたった二本の映画を見ただけで終わり。もう少し色々なことがしたい。