『アナーキー・国家・ユートピア』読書ノート

10年以上積ん読になっていた『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)を読んだ。
・第一部は、いわゆる「自然状態」からいかにして最小国家が導出されるかについての記述であった。ノージックは、最小国家は正当性を持つと主張する。最小国家は、人々の権利を侵害することなく成立するからだ。(この主張は、アナーキストへの反論でもある)。
・この箇所では、政治哲学の伝統である「自然状態」から出発して議論を展開しているので、その伝統に倣わない私達に「そもそもフィクションから出発することにどれくらいの妥当性があるのか」といった疑問を残すことになる。(私はこの箇所を読んでいて宇野弘蔵の『恐慌論』のことを思い出した。精緻な議論が繰り広げられているのだが、様々な事柄を捨象するという宇野の手法に納得ができないとその議論の内部に入っていけない)
・国家の成立については人類学の文献を参照したい。
・第二部では、拡張国家が不当であることを論証しようとしている。よく知られているように、ノージックは、再分配は各人の所有権の侵害であるとして否定している(これは私がこの10年間、ノージック積ん読にしていた理由である)。
ノージックは、手続きの正当性にのみ着目する。すなわち①いかにして誰のものでもないものを所有するに至るか、②所有したものの移転(売買や譲渡)はいかに行われるのかの二点である。最初の所有と移転が正当な手続きを経て行われるのであれば、その結果がいかなるものであろうと(いかに貧富の格差があっても)それは正当な状態であるということになる。
ノージックは、①について基本的にはロックに依拠しているのだが、ロックの理論への疑問点を未解決のままにしているところがある。例えば、ロックは、人は無主物に自らの労働を混入することによってそのものを所有できると主張するが、果たして所有物の境界をいかにひくのかといったことだ。
・親は子供を所有できるのかという点についても触れられている。(スーザン・オーキン『正義・ジェンダー・家族』を読む。)
・私は「自己所有」という概念に関心を持ち、悪評高いリバタリアニズムに親近感を覚えているのだが、残念ながらノージックにおいてこの主題は展開されていない。
・補足的に触れられているだけだが、マルクスの労働価値説を批判した箇所がある(第8章<マルクス主義的搾取>)。労働価値説において、あるものの価値は、そのものに含まれる労働の量によって決まるとされているが、実際にはマルクスの理論はそうなっていないという批判をしている。このノージックの批判をいかに評価するのか?
・第八章<自分に影響することに対する発言権>、第九章<最小を越える国家の派生>のいずれも民主主義国家を否定するような論理展開になっている。