ハンドルを握る女と救済される男
先日『ドライブ・マイ・カー』をやっと見た。
期待していなかったのだが、かなり面白いと思った。男が都合よく救われる話、ということで、一部のフェミニストには評判が悪いらしい。しかし私はこの映画がとてもいいと思った。家福が弱さと向き合うことで「toxic masculinity」を解毒する映画だからだ。
それよりも私が気になるのは、なぜみさきは「女らし」くないのだろうか。なぜみさきはドライバーなのかということだ。
みさきは「女らし」くない。それは誰の目にも明らかだ。ボーイッシュな服装に化粧をしていないあどけない素顔。話し方もぶっきらぼうで女性性を一切感じさせない。
そのせいか、私たちは家福とみさきが決してくっついたりはしないのだろうと思って映画を眺める(それもおかしな話なのだが)。
実際、みさきによる家福の救済は、性愛の中では行われない。
なぜみさきはドライバーなのか。ドライバーは一般に男の職業だと思われている。映画の中でもドライバーは軒並み男である。『タクシードライバー』、『ドライブ』、『ベイビードライバー』、『タクシー運転手』……。
このことの意味は明らかなように思われる。車の運転は人生のかじ取りの暗喩だ。頑なにハンドルを手放そうとしなかった家福だが、結局はみさきに運転を任せている。主体性を放棄して、みさきにかじ取りを委ねようとしている。