Creamfields Southとイギリスのドラッグ事情(を垣間見た)

5月27日~28日にかけてロンドン郊外で開催されたCreamfields Southに行ってきた。

普段、テクノはほとんど聴かないので、FAT BOY SLIM以外の出演者は名前すら聞いたことがなかったんだけど…

CALVIN HARRISは聞いたことのあるキャッチ―な曲もあったし、巨大プロジェクターを両側に配した屋外ステージは圧巻だった。あとWILKINSONが縦ノリで良かった(と思ってたけど、Spotifyで聞き直したらなんか違ったので別のアーティストだったかも)

 

streamable.com

 

イベントの数日前に、私をイベントに誘ってくれた友達から「一緒にMollyやる?」と連絡が来た。

日本にいたときはMDMAをやる機会は皆無だったのに、ロンドンに来てからはすでに2回誘われている。

ただMDMAっていいイメージがなかったので(そしてサンフランシスコから帰ってきた時差ボケで体調も万全じゃなかったので)「ケミカルはいいかな~」と一旦断ることにした。とはいえ、当日のノリと体調によっては試してもいいかなとは思っていたんだけど。

 

でも当日ちょっと驚いたのは、隠れてトイレでやるとかですらなく、普通に会場でバンバンやってるんだよね。一応、仲間内の誰かがやるときは、他の人が壁を作って周囲から見えづらいようにはしているんだけど…隙間から見えるから全然意味がない(笑)

一日目はMDMAがメインで、二日目はコカインがメイン。どうやらその日の気分によってみんなで何をやるか決めているみたいだった。

一日目にMDMAをやった女性がテンション上がってみんなに抱き着いたりキスしていたりしたの意外はみんな普通だった。

そして私は「誘われたらやっちゃおうかな~」と横目でチラ見していたんだけど、誘われることもなく、MDMAもコカインも未経験のまま終わってしまった。

 

面白いのは、今回コカインとMDMAをバンバンやってた人たちはみんなエリートコースを邁進しているということ。大学ランキング✕位の大学院でMBAを修了して、世界中の(インターネットに接続できる人なら)誰もが知っているような企業でマネージャーをしている人とか。

 

というわけでハードドラックを嗜むこととエリート街道を邁進することは両立するみたい。というのが日本の薬物報道のイメージと違って面白かった。

 

MDMAはインスタントな合成麻薬というイメージで興味が湧かないけど、コカインは試してみたいかも。でもその前にLSDかな。

 

www.daiwashobo.co.jp

 

 

 

LSEからの朗報、困惑

LSEMSc in Social Anthropology から条件付き合格の知らせが来た。

 

元々、LSEMSc in Sociologyを第一志望にしていたのだけれど、こちらは案の定不合格だった。案の定、というのは、昨年の倍率が10倍近かったので難しいだろうと思っていたのだ。私の場合、GPAは3.5を下回っているし、「社会人」として何か実績を残せたわけでもない。卒業後に「社会起業家になります!」みたいなのもないし…

 

そしてMSc in Social Anthropologyの合否はなかなか分からず……

 

その間、これ以上渡英を遅らせたくない私は、サクッと条件付き合格をくれたSOASへの進学準備を進めていた。もしLSEのSocial Anthropologyに合格したとしてもSOASに行こうと思っていた。というのもLSEには日本が専門の研究者がいないからだ。

 

それと、知人・友人の話を総合すると、SOASの校風が合っているのも確かだった。友人は、SOASの修士課程で真っ先に資本論を読まされたと話していたが、資本論は学部のときに読んだ。というか、マルクスは大体読んだ。ストライキパレスチナへの連帯、マリファナ……すべてが楽しそうだ、というか、SOASは本当に大学なのか。オルタナティブ・スペースじゃないのか。

 

と、思っていたのだが、いざLSEから条件付き合格が来ると断るのももったいない。どうしよう。

 

「当初の目標だったLSEに行こう」「大学ランキングなんて馬鹿げている」「UCLの人も博士課程はわざわざSOASにしていたじゃないか」…といろいろな思考未満みたいなものが頭の中に浮かんでは消えていく。こういう状態は本当に苦手だ。

 

初心に返って、やりたいことができる場所、を選ぶしかないよな。

インドの貧しい代理母とキラキラゲイカップル

ずっと気になっていた『もうひとりの母たち』を見た。

 

もうひとりの母たち 【日本初公開】 | ドキュメンタリー映画|アジアンドキュメンタリーズ

 

代理母の何が問題なのだろう」、「危険な肉体労働と何が違うのだろう」と思っていたが、これを見て、代理母をせざるを得ない状況にインドの女性たちが置かれていることに対してネガティブな感情を抱いた。

 

ドキュメンタリーに登場する代理母たちの何人もがシングル・マザーだ。夫と死別した人もいれば、夫に暴力を振るわれていたという人もいる。
他に収入を得る方法があれば、彼女たちは代理母の仕事を引き受けなかったのかもしれない。インド社会における女性の雇用機会の改善が必要なのだろう。
(日本もインドについて言える立場にないが)

 

病院を取り仕切っている女性の医師が高価な車に乗っている一方、代理母が報酬で購入しようとしていたのは夫が使う人力車だった。医師と代理母たちの収入には大きな差があるのではないか。ならば、女性の医師は代理母たちを搾取している、といえるのだろうか。

 

しかし、医師が言うように、代理母の女性たちにもっとマシな仕事があるわけではないのだろう。医師は、彼女たちが病院にいる間に教育を施そうとしている。(どうやら教師のレベルが低いようだが)代理母の中には、この医師に本当に感謝していると話す人もいる。

 

病院の環境は、あまり良くなさそうだ。ひとつの部屋にベッドをズラッと並べて間仕切りすらない。途中、代理母たちが喧嘩するシーンも出てくる。

受精卵をいくつも子宮に入れて、あとから「減数手術」なるものをするというのも、
女性たちに心身の負担がかかりそうだと思った。実際、妊娠した子供のうちの二人を殺さないといけないと言われた女性はとても動揺していた。

 

何より、代理母心理的にかなり負荷のかかる仕事であることが分かった。代理母の多くは、子供たちとの何らかのつながりを求めている。(依頼した夫婦が写真を送ってくれたり、食事に招待してくれることを期待している)
しかし子供の両親が必ずしもそのように振る舞るかどうかはわからない。夫婦に偽の電話番号を渡されたと嘆く代理母もいた。

 

とはいえ、代理母に反対すると、妊娠・出産を神聖なものとして扱うことになりそうでどうしても警戒心を抱いてしまう。

セックスワークを労働として認めて労働環境の改善を求めるように、代理出産を労働として認めて労働環境の改善を求めることはできないのか?

 

ドキュメンタリーでは、依頼してきた夫婦のことはあまり取り上げられなかった。最後に出てきた夫婦は、夫は流暢な英語を話しており、現地の言葉が分からないようだった。妻は現地出身なのだろうか?代理母に対して親切そうであったが、本当にインドに帰って来る度に子供と一緒に代理母に会いに来てくれるのかどうかは分からない。

 

↓記事では、アメリカ在住の代理母が登場する。アメリカのように女性の雇用機会が充分にあるように思われる社会であれば、問題ないのだろうか?

 

「最高のギフトをもらって君が誕生した」代理母出産で息子を授かった、“ふたりぱぱ”の思い。YouTubeで話題のある家族を知っていますか?

ハンドルを握る女と救済される男

先日『ドライブ・マイ・カー』をやっと見た。

期待していなかったのだが、かなり面白いと思った。男が都合よく救われる話、ということで、一部のフェミニストには評判が悪いらしい。しかし私はこの映画がとてもいいと思った。家福が弱さと向き合うことで「toxic masculinity」を解毒する映画だからだ。

 

それよりも私が気になるのは、なぜみさきは「女らし」くないのだろうか。なぜみさきはドライバーなのかということだ。

 

みさきは「女らし」くない。それは誰の目にも明らかだ。ボーイッシュな服装に化粧をしていないあどけない素顔。話し方もぶっきらぼうで女性性を一切感じさせない。

 

そのせいか、私たちは家福とみさきが決してくっついたりはしないのだろうと思って映画を眺める(それもおかしな話なのだが)。

 

実際、みさきによる家福の救済は、性愛の中では行われない。

 

なぜみさきはドライバーなのか。ドライバーは一般に男の職業だと思われている。映画の中でもドライバーは軒並み男である。『タクシードライバー』、『ドライブ』、『ベイビードライバー』、『タクシー運転手』……。

 

このことの意味は明らかなように思われる。車の運転は人生のかじ取りの暗喩だ。頑なにハンドルを手放そうとしなかった家福だが、結局はみさきに運転を任せている。主体性を放棄して、みさきにかじ取りを委ねようとしている。

 

男たちと母親たちと女たち

たまに思い返しては腹が立つ言葉というのがある。たとえば、智己くん(仮名)が私に言った「満たされれば性欲も落ち着くよ」というものがそれだ。


正確な言い回しは忘れてしまったが、智己くんは当時遊び呆けていた私をつかまえて、「愛情を知れば、君も落ち着く」みたいなことを言ったのだった。

今でも思い出す度に腹が立つ、とまでは言わないが、思い出す度にげんなりする。
性に奔放なのは本当の愛を知らないからだ、か。男も、そして女も、女のセックスというものは愛情と不可分のものだとなぜか思っている。
男は、「性欲」そのものをただそれだけで持つと思われているのに……。


智己くんは、ジェンダーレスな整った顔立ちで、都内の有名私立大学を卒業後、外資系のコンサルティングファームに勤務していた。当時は、まだ20代半ばだったけれど、私が会っていた男の誰よりも金払いがよかった。
きっと女性からは引く手数多だったろうに、なぜか私への執着を伺わせた。

智己くんは、雪の深い地域でシングルマザーのお母さんに育てられた。
彼の母親は、薄暗いアパートに毎日違う男を連れ込んでいた。そして、肩紐の伸びきったキャミソールで、薄い布団にくるまって眠るのだ。そうこうするうち、智己くんの妹を身ごもるも、”父親”に反対されたのか、これ以上の負担には耐えられないと思ったのか、その子供を堕ろしてしまう……。

年上の女でないと駄目だという彼が、女に母親を重ねているのはあまりにも明白なことだった。
とりわけ奔放だった私は、(そしてまさに当時の母親の年齢だったという私は)男をとっかえひっかえしていた母親と重なったのだろう。
私を「改心」させられれば、母親を救えなかった幼い頃の自分を慰められるとでも思ったのだろうか


なぜ男たちは母親と同じような問題を抱えた女と一緒になってしまうのだろう。

片付けができない母親のせいで、一時身を寄せた家はゴミ屋敷だったというのに、総一郎くん(仮名)は片付けができない女とばかり付き合っている。(私は「うちに来れば片付けなんてしなくていいのに」という言葉を飲み込む。)


そういえば私の男も家事のできない母親と同じように、生活能力のない私を選んでしまった。
育児放棄と言えるような環境で、幼い頃から炊事を強いられてきたのだから、今度は料理をしてくれる女を選んでも良さそうなものなのに。

かわいそうな男たち。

「子どもがいなければ、自分の人生がずっと良くなるということです。そのことに疑いの余地はありません」

オルナ・ドーナト著『母親になって後悔してる』を読んだ。
 
著者は、いわゆる「先進国」に蔓延するさまざまな幻想―女性は子供をほしがるのが自然だ、子供を産まなければいずれ後悔する、子育てが辛くてもいずれ報われる(このいずれも日本で生きる私”たち”にはお馴染みのものだ)―を母親になったことを後悔している23人の女性たちの証言をもって打ち砕いていく。
近年、子育ての大変さ(とりわけパートナーが協力してくれないときの大変さ)を嘆く声は、SNSを中心に広く見られるようになった。しかし「母親になったこと自体が間違いだった」という声は聞かない。そうした女性たちの声に着目したセンスと幻想を次々と批判していく根気強さに舌を巻く。
これを読んで思い出したのは、「子供を持つなんて考えられない」と私自身が人に話すとき、「育てるのが大変そうだから」という穏当な理由を添えることが多いことだ。「子供を可愛いと思ったことがない」と言えば、人格を疑われるだろう。
そして男たちの楽天さ。私との将来を望む男たちは、どうやら「いずれ気が変わるだろう」と思っているようなのだ。
それとライフ・ヒストリーやインタビュー調査に対しては良い印象を持っていなかったのだけれど、こうした手法には、これまで聞かれることのなかった人々の声を拾い上げる力があるんだなと感心した。
 
 

Protesters blocking streets.(メモ)

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カナダでは、コロナの感染拡大のための規制に反対する人たちがオタワの街で抗議行動を続けているらしい。まだ情報を収集し始めたところだが、どうやら「反ワクチン」の人たちがかなり含まれているようだ。

 

左派はついぞこれだけの人々を動員できることなく、「反ワクチン」と陰謀論はやすやすと人を集めているという現実がある。

 

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